駄菓子にまつわる-思い出話集-
2009年2月6日~2009年2月15日まで「懸賞プレゼント企画」において、「駄菓子にまつわるエピソード、思い出話」を募集いたしました。その中から面白い話、心温まる様なお話などを中心に集めてページにしました。
とっても沢山のお話を頂きましたが、全てを掲載する事は出来ません。まだまだ数々の素敵なお話を頂きましたが、掲載出来なかった方には、この場をお借りしてお詫び申し上げます。
兵庫県神戸市 火の楊枝 様
駄菓子の思い出はやはり小学低学年の時代が一番印象が強いですね。なんと言っても、名前は忘れましたが1本10円のきな粉の付いた硬~い餅?(あれはなんだろう・・・)爪楊枝にさしていて楊枝の先に赤い印があれば当たり!かなりの確立で当たりましたが、その当時の友達はなかなか当たらなく、腹が立ち自分の歯茎を犠牲に楊枝の先に血を付け、当たりと似せつけもう1本貰っていました・・・さすがにあの当時でもひきました・・・それほどまでにして1本を食べたいという気持ちになるのは、やはり美味しいかったからだと思います。
神奈川県伊勢原市 T.M 様
私の子供の頃の話なのですが、近所に駄菓子屋さんは無く、自転車で25分ぐらいかかる場所にしかありませんでした。ですが友人とせっせと自転車をこいで毎日のように行っていました。 汗だくで当時20円ほどの飲料をのんで休憩してからお目当てのお菓子を物色していたのを懐かしく思います。それからお菓子を食べながら、店のおばちゃんと色々な話をしました。親に怒られたこと、楽しかった事、悲しかった事、今思えばあそこは少年時代の私の避暑地だったんでしょうかね?^^ 現在はトチギヤさんに時々注文させて頂いてそんな事を思い出しつつホームページを夢中で物色しています。
東京都品川区 Tanishi 様
駄菓子といえば「紙芝居」のおじさんを思い出します。当時(昭和25年ごろ)は子供の楽しみは「週に1回来る「紙芝居屋」さんが唯一の楽しみで、中でも水あめ・ソースせんべいなどをわずかな小遣いで買って食べました。甘いものが少ない時代だったので飴玉や水飴を競って買って、特に水飴は練って練って白くて誰が一番白いかを競ったものでした。遠い昔を思い出しました。
千葉県鎌ヶ谷市 S.M 様
小学校3年生のバレンタイン。3年生だから月に300のお小遣いだったと思います。お父さんにチョコレートをわたしたくてスーパーに選びに行ったんです。でもスーパーにあるのは100円とか、当時の私にとっては、それこそセレブ商品だったんです。でも、お父さんの喜ぶ顔が見たくて、私は同級生の家でやっている駄菓子屋に行きました。駄菓子屋は3年生の私にも選ぶ楽しさを与えてくれました。7,80円位でも、お父さんの顔を思い浮かべて、楽しくお買い物ができたんです。駄菓子屋さんって、昔から一番優しくて、いつもそばにあって…あったかいですよね。だから、今でも駄菓子を食べると気持ちが穏やかになって、仕事で疲れているときこそ手にしたくなるものなんです。あれが父との最後のバレンタインになってしまったんです。あのバレンタインデーから20年以上が経った今、このページをみてつい懐かしく思い出しました。
福岡県久留米市 ゆうころママ 様
夏の暑い日。仕事帰り、小学生の頃常連だった駄菓子屋に車で立ち寄った。20年以上ぶり。懐かしい臭いのする、ひんやりと薄暗い店の奥座敷に声を掛けたら、私の半分位の身長になったおばあちゃんが出てきた。懐かしさと驚きで目を見開いた私に、おばあちゃんは一言。「大きゅうなったねえ、また来てくれて嬉しかねえ。」その途端、化粧やパーマやヒール靴で(ある意味)武装していた私が薄れて、おかっぱ頭で真っ黒に日焼けしていた頃の私を思い出した。ごめんね、おばあちゃん。細々と駄菓子屋が続いているのは、いつも車の窓越しに確認していたけれど、もうずっと昔から県道沿いのコンビニにばかり寄ってた。明るくて空調も完璧で、マニュアルな店員の応対。それとは対照的な、駄菓子屋のおばあちゃんの一言。快適なコンビニが好きだったはずなのに、おばあちゃんの一言で、涙が出そうになった。「今日は、いっぱい買えるよ!!」目的のアイス以外にも、懐かしい駄菓子を袋一杯選んだ。「一度に買わんと、また来るといいよ」そう笑って、ちょっとオマケしてくれたおばあちゃん。ありがとう。人を暖かい気持ちにさせるってどういう事なのかを考える事ができ、また一つ大人になれたよ。ずっとずっと長生きしてね、と、おかっぱ頭時代の純粋さで祈りつつ、アクセルを踏んだ。
岩手県宮古市 A.H 様
駄菓子屋の思い出は数えきれないくらいありますが、中でも印象的な思い出は、当時駄菓子屋には色々なくじ引きがありました。その中でアイドルのプロマイドのくじ引きがあったんです。普通サイズのプロマイドが見えない袋の中に入っていて、そのプロマイドの裏に当りと書いてあると大きなプロマイドがもらえるというくじでした。ある時、駄菓子屋に行くと当時大好きだったアグネス・チャンの大きなプロマイドが当り賞品で出ていたのです。お年玉を貰ったばかりのころだったので、わたしは当りが出るまで引き続けました。他のやつに当てさせてたまるか・・・。そんな気持ちで引き続けました。そして、遂に当てたのです。もう、心臓がバクバクするほどうれしかったことを昨日の事のように覚えています。ほんとうに駄菓子屋は大好きでしたし、今でも、大好きです。
広島県広島市 じゃがりこ 様
小さい頃家は貧乏でした。少ないお小遣いで、駄菓子屋に行き、お気に入りの10円のふ菓子とチョコサンドをよく買いました。ある日、川沿いに真赤な彼岸花が咲いているのをみつけ、おばさんに持っていきました。「仏壇に飾ってね。」と。すると「ありがとう。お礼に好きなお菓子あげるよ。」と言ってくれたんです。ふ菓子をもらって食べました。駄菓子にまつわるお話をお書き下さい。3(全角128文字以内) = それから、味をしめた私は野原でお花をみつけては駄菓子屋に持って行き、ふ菓子やチョコサンドをごちそうになりました。小学生のくせにいつも1000円くらい持ってる友達とばかり遊んでたのでお金がなくていつもみじめだったけど、裏ワザでお菓子が食べられたので、とてもうれしかったです。今はそこの駄菓子屋さんもお店をたたんでるし、おばさんももういないだろうけど、すごく懐かしい、いい思い出です。
茨城県つくばみらい市 yossyy 様
昔、近くの駄菓子屋でアイスクリームの引き換え棒を使ったとき、引き換え棒を渡してからアイスクリームを持っていくところを、近所の人に万引きと勘違いされ警察に通報されました。皆さんも気をつけてください。
山梨県山梨市 とも 様
いまや,スーパー等に駄菓子コーナーが出来てしまって通常の買い物の中で買うようなお菓子になってきましたが、自分が子供の頃は駄菓子といえば、少ない小遣いを握り締めて子供だけで買いにいくお店でした。店のおばちゃんとも顔見知りで、10円だけの買い物でも嫌なお顔をせずに「どれを買おうか」悩んでいる間もいつもニコニコと待っていてくれたのを思い出します。でも、やはり一番鮮烈に覚えているのは「びっくりマンチョコ」ですね。自分は決まった小遣いをもらっていなく、小遣いをもらっている友達がびっくりマンチョコを買いあさって、お菓子を食べずにシールだけ集めているのを良く覚えています。 (良くついて行ってはお菓子のほうをもらっていました)非常に流行っていて、どこもかしこも売り切れ、市内中の駄菓子屋を友達と一緒に回ったものです。
秋田県由利本荘市 ありす 様
小学生の時に習字の教室の途中に駄菓子屋さんがあり帰りに寄るのが楽しみで少ないおこづかいからどのクジをひくか考えて、クジの他に瓶ジュースも飲む時は残りはいくら???など子供なりに必死でした。よっちゃんイカ、カレーあられ、串にささったカステラ、糸でひっぱる飴、10円の粉ジュース。瓶ジュースを飲みながらクジをひいて他の知らない子が自分のすぐ後に当たりくじをひきうらやましがったり、おこづかいの金額を比べては落ち込んだり、喜んだり。ジュースを飲み終わって瓶を返して帰るのは今のペットボトルじゃ味わえないし・・・子供だけの社交場みたいな雰囲気が大好きでした。お店での駄菓子も大好きですが、両親が他の家族何組かと新年会をするときに子供が退屈しないようにクジつきのお菓子のセットを2~3つほど買ってきてくれて子供達7~8人はタダでクジ引きを存分に楽しめて、特別扱いされたようないい気分でした。そんな気分させたくて今は自分が子供達にプレゼントして楽しい想いに浸ります。
愛媛県今治市 イスカンダル 様
「アメは甘いか苦いか」
四十数年になるだろうか?十円玉を握り締めて駄菓子屋に走って行っていたのは・・・。その頃の私のお気に入りは三角の形のしたアメにひもが付いていて、その先を選ぶというものだった。赤のイチゴ味黄色のオレンジ味があり、運がよければ大きいのが当てることができるのだ。絡んだひもを子供ながらにただひたすら見続け、間違いないと思って引っ張るのだが、上がってくるのはいつも小さなアメだった。そして、一緒に行った友達は何も考えずにサッと引っ張ると見事に大きいのを当てるのだ。もしかしたらあれが人生最初の悟りだったかもしれない。そう欲をかいてはいけないのだ。無欲の勝利というやつだ。しかし、それから何も考えずに端から選ぶことにしたが、やはり大きいのを当てることはできなかっつた。数日して行くと大きいのがかなり残っていてはずれの小さいのは少ない。ここはしばらく様子を見てもっともっと確率が高くなってからひこうとまっていた。すると数人が次から次へと当たりの大きいのを持っていくのだ。結局残ったのは小さいのが三つだけ・・・。私の顔が余程哀れに見えたのだろう。お店の人が「これもうひかんでも、全部あげるよ。もう当たりがなくなったから」と私にくれたのだが、嬉しくはなかった。確かに三十円分を十円でもらったのだから損はしてないし、大きさだって三つ合わせると当たりのよりは大きい。でも、違う・・・複雑な気持ちで持って帰ったが食べる気になれずテーブルの上に置いていたのだが、夏場のせいもあり溶け出してしまった。母には怒られるは、食べられなくなるは、さんざんだった。甘いアメなのに苦い思い出だ。
大阪府堺市 kobuoyaji 様
私40才代なのですが、35年以上も昔、ガムの点数を集めると金属バットが必ずもらえるっていうのがあって毎日ガムばっかり買っていたっていうのを覚えています。周りのみんなも同じバットを持って三角ベースボールを毎日やっていました。当時は「当たりもん」とか「カード」が付いてくるスナック菓子が流行りでした。当たりの景品目当てで買うのは景品付きのものばかりでした。今は駄菓子を口にする機会が少なくなりましたが、景品付きの物をもっと増やせば楽しみも倍増するのではないでしょうか?カード付きのスナック菓子は当たりが出れば「アルバム」がその場でもらえました。当たりのカードは外れとは別梱で駄菓子屋のおばちゃんが混ぜるのですが、その混ぜるのを鬼のような目つきで追ったり、包装紙の微妙な印刷の色違いを見分けて当たりを探したのを思い出します。どれも今となっては楽しかった思い出です。駄菓子屋は友達とのコミュニケーションの絶好の場所でありました。今の子供はコミュニケーションが下手な様ですが、家にこもってゲームか塾通いばかり。駄菓子屋の減少も原因ひとつかも知れません。なんだか寂しい限りです。
千葉県柏市 にゃろめ 様
娘10歳は幼少の頃偏食で食事には困らされました。その娘が友達と駄菓子屋でペペロンチーノを食べるのを楽しみにし団らん時に旨くてたまらないんだと熱弁する娘。私の料理では言って貰えない旨いの一言。ペペロンチーノに負けた、私。どれだけ旨いんだか一度食べてみたい。
東京都北区 アリー 様
20年以上も前の話です。駄菓子もそんなに高くはありませんでした。毎日のように学校から誰もいない家に帰って唯一の楽しみが特に好きだったのがチョコ関連の物すべてです。駄菓子屋さんのおばあちゃんとのお話でした。おばあちゃんも甘いものは大好きでいつもおまけをしてくれて、楽しくおしゃべりをし、子供心に親よりも身近な存在になっていました。ある時親に毎日通っていることがばれてしまいこっぴどく怒られて禁止になってしまいました。行けなくなり月日も過ぎて中学生くらいになったときに駄菓子屋さんは閉店しており、おばあさんが他界したのも原因の一つだったようです。この話は、何ともびっくりなのですが、5年付き合っている彼氏のおばあちゃんだったので、もしかしたら見えない糸でおばあちゃんとつながっていたかも・・・・そんな思いが今でもあります。人生何がどう起こるかわからないものです。これも「駄菓子」が結んでくれた五円だと思っております。
兵庫県神戸市 風太郎 様
「秘密基地食料調達基地 駄菓子屋」
子供の頃友達とよく作ったのが秘密基地です。色々な所から木材やビニールシートを調達したりして何日もかけて作ったものです。そして秘密基地にかかせないのが駄菓子です。100円玉を握り締めて駄菓子を買い、秘密基地の食料(笑)とします。秘密基地で遊びながら色々と想像力を膨らませるんですね。仮想敵を想定しどこかの部隊から取ってきた食べ物を駄菓子の戦利品と見立てたり、遭難した部隊が駄菓子で生き延びるというゲームを想定したり。ほんとに色々と想像力を掻き立てて遊びに工夫をこらしました。もちろんこんな風に想像力を掻き立てることができたのも美味しい駄菓子があってのことです。遊びと駄菓子を通して友達との関わり合いを学んだ大切な子供時代でした。駄菓子屋さん本当にありがとう!
愛知県半田市 ちゃとら 様
子供の頃から綿菓子が好きで、近所に50円の綿菓子機があって良く作っていました。成人後のとある日、部活の顧問が宮司のため夏祭りのお手伝いに。(もちろん強制)私は綿菓子屋さんをする事に。まぁ、昔やってた機械とそう変わらないので喜んでいると、隣のテキ屋さんから「ねちゃん、手つきいいなぁ。うちに就職せんかぁ?」とスカウトされました。もちろん丁重にお断りしましたが、ちょっと嬉しかった。
埼玉県さいたま市 れいこ 様
子供の頃、家の近くに駄菓子屋さんがありました。お小遣いをもらってはそこへ通い、いくつかの駄菓子を買って近くの沼でザリガニ釣りをしていたことを憶えています。エサにしていたのは、串に刺さった「酢いか」なのですが、ザリガニを釣りたいのにそれが大好物だった私は、半分食べ、半分はザリガニ釣りにと心の中は葛藤していました。今でもその「酢いか」は大好きです。また、誕生日会に来てくれたお友達のために、200円分くらいの駄菓子を選んで準備するのが、とっても楽しかったのを憶えています。誕生日会に来てくれた友達に自分が選んだ駄菓子をあげる時はなんとも言えず嬉しかったです。
秋田県秋田市 くいしんぼ 様
小さい頃、棒にあたりとあれば もう一本もらえる力道山飴がありました。うちに戻って食べたらあたり!お店へもらいに行き食べたらまたあたり!そして3本目もまた!お店のおばさんが半泣きで別のお菓子を持たせて「また明日」と追い出しました。迷惑だったのね?!
広島県広島市 けいここ 様
初めて駄菓子を食べたのが小学校の時です。学校の近くに駄菓子やさんがあって、当たりつきのガムいりの飴ばっかり買ってました。頻繁に当たりがでるのがうれしくてたまらなかったんです。10円だけの買い物でもでてきてくれてたおばあちゃんも好きでした。遠足のおやつは300円までと決められていました。毎回私は駄菓子やさんで買ってました。10円のものから買えるので、300円分といったら20種類くらいのものが買えました。ガムもチョコも好きなものばかり買って、友達と交換したりしてとっても楽しかったです。大人になったら懐かしさもあって駄菓子を買うのが楽しいです。友達と一緒に、これあったねーといいながら盛り上がります。そして大人買いができるうれしさも味わってます。昔好きだったマシュマロをこないだ箱で買いました。快感です。今は子供ができて、子供と一緒に駄菓子を食べてます。子供も駄菓子をすごく喜ぶ姿を見ていると、昔も自分はこうだったのかなあと微笑ましい思いです。自分は好きなもの買いますが、子供には何個までよって言います。制限があるからきっと選ぶ喜びがあるんだろうなと思ってます
三重県鈴鹿市 今は昔 様
近所に「オチョバー」という駄菓子屋がありました。私は友と連れ立ってよく訪れました。ある日、突然悟るところがあったのです。アメに棒が付いていて、そのアメの包み紙に「あたり」とあると、もう一本もらえる菓子がありました。私はその日一番小さい棒を選びました。結果は「あたり」その次また小さいのを選ぶと、また「あたり」。最初ニコニコしていたおばあさんの顔が、3本目には引きつってきたように思いました。そのおばあさんについて、私は少し大きくなってから、また悟ることがあったのです。「オチョバー」の秘密です。あのおばあさんの名が、「お千代さん」であることに突然、気づいたのです。みんなが「『オチョバー』へ行く。」というのは「お千代ばあさんのところへ行く。」ということだったのです。
東京都足立区 Small Boat 様
我が家は、東京の下町、駄菓子屋さんも多くあったが、駄菓子を作っている家内工場(平たく言えば、家のお勝手のようなところ)も多くあった。 今は廃業したが、杏のお菓子を作っていた工場(後、全国でみかけたのにはびっくり、シェアが大きかった見たいですね)、爆弾に水飴で団子を作っている(なんと、おにぎりのように素手で作っていた)その工場近くの公園で、かの有名な「よしのぶ」ちゃん事件があった。かれも、その店の駄菓子を食べていた。そう、無意識で、誘拐された公園で、彼と遊んだいたのだ。今からなんと50年近い前のこと。知らないようでしたら、検索すると、昭和の事件で出てきます。
三重県津市 ぐずぐず 様
私は、小学校に入るまで、駄菓子の存在を知りませんでした。小学校の前に駄菓子屋さんがあって、友達に連れられて初めて、駄菓子を買いました。見たことのない駄菓子の空箱が落ちているのを珍しげに眺めていたら、同じクラスの男の子が、私に向かって、乞食やーいと言いました。その駄菓子屋さんで、女の子が万引きをしたのを知って、びっくりしました。後にその女の子に、私は、嵌められました。
北海道岩見沢市 ミナ18 様
北本商店の店先には、低いガラスケースの中には、カラフルな駄菓子が、いっつも、私達を迷わせた。ランドセルを放り利投げて、二つ違いの妹手をつなぎ駆けて行った。先に来ていた坊主頭達の間から、やっとの事で二個ずつ選んだ。左手に握りしめた五十円玉が、温かくなるくらい。老夫婦が営んでいたその店は、中校生になる頃には無くなってしまった。月日は流れ、駄菓子は、スーパーで大人買い出来るようになった。子供の頃感じていた思いは今も変わらずつい、並んだ小さなお菓子たちにドキドキしてしまう。そうだ!バレンタインデーに詰め合わせてみようかな?幼馴染のパパ(旦那)に!!!
愛知県名古屋市 ちびよし 様
お気に入りの公園のすぐそばに、その大好きな駄菓子屋さんがありました。やさしいお店のおじちゃんと、もう一人の店員さん・・・目の不自由なお兄ちゃんでした。振り返ってみれば私にとって、それは身体障害者の方と接する人生初めての機会となりました。初め不自由な目のことがあまりよく分かっていなかった私は、正直言ってそのお兄ちゃんのことが少し怖く感じられました。しかし通う回数が重なり、お兄ちゃんの目のことが分かってきて、一生懸命お店のお手伝いをしている姿を見、大好きになりました。この貴重な、人生初めての大好きな駄菓子やさんでの思い出のおかげで、私はママになった現在に至るまで、さまざまな障害を持つ方と接する機会に戸惑いを覚えたことがないのだと感謝しています。駄菓子がつくってくれた素敵な経験が、今も私のすぐ傍で美味しそうに駄菓子をほおばる娘にも、繋がっていると実感できる嬉しい今日この頃です。
神奈川県高座郡 みいこ 様
私の田舎は静岡です。静岡の駄菓子屋にはおでんを出してくれるお店、自家製お好み焼きを出してくれるお店、夏にはかき氷、ところてんまで出してくれるお店もありました。たいてい駄菓子屋には名物おばあちゃんがお店番をしていて懐かしい昔話や学校であったことを聞いてくれたっけ。学校から帰ったらみんなで駄菓子屋に集合して、小さなお菓子を分け合いながら遊んだのが良い思い出です。あの頃の駄菓子には合成着色料も保存料も多く使われていたのにかかわらず、あの時代の子供達はみんな元気に飛び回っていました。小さいお菓子一つにいろんな思い出があり、幼い子供たちがお小遣いの使い方を覚えた場所でもありました。今も懐かしい駄菓子屋。時々、スーパーの駄菓子コーナーに行くと懐かしくて目が輝きます。核家族が増える中、地域に駄菓子屋があったら、また昔みたいな楽しくて賑やかな子供の声が聞こえるようになるかもしれませんね!
福岡県北九州市 えっとん 様
子どもの頃、近所に本当に小さな駄菓子やがあって、店の名前はあったのでしょうが、近所の友達とは、爺婆の店といって毎日、5円~10円を持って通っていました。この地方の方言かも知れませんが、店に誰もいないと、「も~し~、も~し~」といって、呼び出していました。買うものは、紐の付いた飴(あたり付き)とか、銀玉鉄砲の弾、独楽、かんしゃく玉、小さなスコップ一杯のお菓子(スペードの形だったかな)、夏はベビーコーラ、ホームランバーが定番でした。ホームランバーで懺悔します。ヒット4本で1本と交換、ホームランで1本と交換だったのですが、1回だけヒット3本とホームラン1本を仲間と持っていって、満塁ホームランだからと4本もらったことが有ります。ごめんなさい!
東京都港区 megmegmeg 様
フラメンコ仲間の友人が、ご夫婦で駄菓子屋の経営をしていました。彼女は65歳くらい!なのですが、いつもはつらつとしていて、ショーケン似の素敵なダンナ様とラブラブ。私もよく買いにいきました。同じ教室には小学生の女の子もいたのですが、その子はよくお友達とみんなで彼女の駄菓子屋さんにお菓子を買いに行っていました。そんな友人も70を越え、フラメンコは(ダンナ様と)観る方にまわり、小学生だった女の子も、今ではすっかり中学3年生。駄菓子屋さんは、体力的な問題とこの不景気でたたんでしまいましたが、今でも彼女は『やさしくてきっぷのいい駄菓子屋のおばちゃん』として、みんなから慕われています。駄菓子屋さんならではの、人々との密着したつながりは、最近ではなかなかみられないと思います。私も彼女の友人として、とても誇らしく思っています。今でもレッスンの帰り道に、時々、駄菓子が食べたくなります。
群馬県前橋市 もんきち 様
駄菓子と言えば近所にあったムーミンと言う名前のお店に通っていたことを思い出します。毎週休みの日には、友達と自転車に乗り二百円位を持って、1個10円や20円のチョコやお菓子を買いに行きました。当時はメンコが流行っていて、1回30円位のくじを引いて、大きいメンコを当てるのを楽しみで、何百枚も集めました。今の子は友達と遊ぶとと言っても室内でゲームばかり。外で遊ばせるにも、今は怖い時代なので子供だけで遊ばせるのも少し不安。今の子はどう思うかはわからないが、休みの日は自転車に乗り、友達同士で、駄菓子を買いちょっとした広場で遊ぶことが面白かったなあ。
静岡県菊川市 Jack 様
自分が子供の頃、実家は町の駄菓子屋さんでした。夏はカキ氷、冬はおでん(静岡では駄菓子屋さんでおでんを売っていた)と、近所の憩いの場所でした。夏は、氷屋さんが家の前で氷をノコギリで切って冷蔵庫に入れてくれました、その時に出る細かい切くずを貰って食べるのが好きでした。くじ引きを覚えていますか?四角のくじをめくるとその中に1等や2等と書かれていて当然1等や特等が一番良い賞品なのですが、普通は1等は2本あって一本は必ず当たるようになっていて残りの一本はあらかじめお店の方で抜いておいて最後まで1等が1本は残るようにしていました。サギみたいなもんですが、最後まで夢がありました。自分はめくりくじの1等がくじを見ればわかるので外の駄菓子屋さんに行ってめくりくじの1等をよく当ててましたよ。子供の頃の駄菓子屋の思い出は尽きませんね。
奈良県生駒市 K.Y 様
下町で育った私には、紙芝居と駄菓子屋さんは日々のささやかな楽しみでした。「あてもの」が何より好きで、10円玉を握りしめては毎日通ったものでした。ある時、一等の景品が可愛い髪飾りのあてものが登場しました。妹の誕生日が間近で、どうしてもその髪飾りを妹にあげたかった私は、あてもの目指して何日も通いました。しかし見事にハズレくじばかりを引くのでだんだん諦めモードになっていきました。そしてそのあてものの景品も残りわずかになったある日、駄菓子屋のお婆ちゃんが私に聞きました。「そんなにこの髪飾りが欲しいの?」私はその髪飾りをどうしても妹にあげたいということを話しました。するとお婆ちゃんが、「いつも来てくれるから特別にこの髪飾りをあげるね。」と言って私の手に握らせてくれたのです。私にとって駄菓子屋のお婆ちゃんの親切は、今思い出しても涙が出るほどノスタルジックな思い出です。